心身に余裕がある人間が他人に優しくいれるもの。
ズンッとくる言葉です。
余裕のない時に、その人の本性が見れます。
いや、「本性」とはよく分かりませんが、醜い行動を取りがちになるのは事実です。
いやいや、「醜い」という言葉すら適切か分かりませんね。
自分を優先的に守ろうとする「本能」だと思えば「醜い」と表現すること自体が間違っているかも知れませんが、人々は極端に利己的な行動を「醜い」と思うものです。
確かに余裕のない時にも人に優しく接せれる人とつきあっていたいですし、私自身もそうありたいです。
それが理想です。
ですが、人間性の部分はさておき、結果的に人に優しくいれる人の方がよくないですか?
生涯のうち殆どの期間、人に優しかった普通の人格者と、根はすごくいいやつなんだけどいろいろ待遇に恵まれなくてずっと醜い行動ばかりとってきた人。
愛されるのはどっちでしょう?
私は前者でありたいです。
そこで私は思ったのですが、
人間性を磨くよりも仕事のスキルだとかを磨いて時間的な余裕や経済的な余裕を作った方が人に対して「楽に(負担なく)」優しく振る舞えるはず。
人を幸せにするために努力量など求められていません。自分に対して負担は少ない方がいいです。
身を削ることもひとつの美徳かとは思いますが、理想はwin-winの形です。
結果、如何に利他的に生きれるか。
それが大切です。
だとすると、自分の能力を上げることはひとつの
美しく生きるための手段
だと思いました。
我が家も生活が厳しい頃、これまでには無かったような醜い夫婦喧嘩を繰り返していました。
お互い余裕がなかったんです。
仕事で追い込まれている私と家事育児で追い込まれている妻の間に、相手が大変なのは分かっていても自分の状況の苦しさの中にそれ以上の普段を負えるキャパがお互いになかった。
時期的な問題もあったと思います。
お互いの「極限レベル」が同時期に重なって、支え合うべき2人が敵のようにすら思えたりして。
ただ、ひとつ間違いなく言えるのは、
やはり能力が高ければキャパは増える。
やれることが増えて、資産も増える。
そうすればまた時間もできて、自己投資ができる。
だから
学ぶんです!
鍛えるんです!
愛すべき人を愛し、愛されるためにも。
本能を剥き出しにすることを「醜い」というのなら元々動物である人間は究極のところ醜いのでしょう。
でも、動物として生まれつつも、本能を剥き出しにしないのが、人間が他の動物と違うところであり、それをもって「人間」というのなら、「学ぶ」「鍛える」ということが人間を人間たらしめているのかも知れませんね。
そして、それが『人間の本質』なのかも知れません。
そんなこと考えていたら、また一つ、私が学び、鍛える理由が明確になりました。
