命をいただくということ

今日はちょっと重いテーマなんですけど、目を背けながら生きていくのも違うのかなと思う内容です。是非,何か感じ取って貰えればと思います。

今から2年くらい前のことでしょうか、動物を殺して捌いて食べるという一連の流れをありのままモザイク無しで映した映像を見ました。

私の小さい頃はもっぱら地上波のテレビでしか映像で情報が入ってくることはありませんでした。

今考えると相当、情報操作され、年々規制は厳しくなり、刺激のない映像ばかりが放送されるようになりました。

政治的に触れちゃいけないことに触れた芸人は干され、日常ではあり得ないことをしているから面白かったことが、教育上よくないと言っては規制がかかり、バカ殿ではおっぱいが映されなくなった。

しかし、今はそんな逆にリアルじゃないテレビを置き去りにして、あらゆる手段で映像による情報を得ることができます。

これには確かにデメリットもありますが、今の規制だらけの地上波の番組より、紛れもない真実の情報が得られることもあります。

「適切では無い表現」という言葉がこう言った議題の際にはよくあがりますが、「適切」とは各年代に応じて異なることがあるため、テレビ関係者を責めることもできないのです。

そんな中,私がみた、ひとつの真実。

言葉にすれば当たり前ですが、我々は他の命を戴いて生きている。という事実。

動物を殺して、捌いて、食べる。

道徳的にひとつの矛盾も無くして、この事実を正当化できる人がいるでしょうか。

「わんちゃんは虐めちゃダメで、虫さんは殺していいの?牛さんも豚さんも殺していいのに人は殺しちゃダメなのは何で?」

そんな恐い質問してくる子供がいないことを願うばかりです。

虫は気持ち悪いから、害があるから殺していいなら、じゃあ私のことをいじめてくるあの子は?あの見た目が悪いあの子は?殺しちゃダメなの?

はい、もうサイコパスの世界で怖くなって読むの辞めちゃう人がでてくるからこの辺でやめますけど、命に関して解決できない矛盾を抱えながら生きているんですよね。

ペットの豚は食べちゃダメ!家畜の豚は食べ物です。

人間で言うとあの子は友達、あの子は奴隷という区別になります。

ベジタリアンだって植物という命をとって食ってますからね。自分の都合、他ならないですよ。

自分が生きるために他の命を殺す。これを正当化できるでしょうか。

なんとか割り切って全うそうな言葉に落とし込んだのが「必要悪」というものでしょう。「仕方ないから」という言葉をなんとか用いるための概念。明らかに必要ない悪との線引きをするために生まれた言葉でもあるのでしょうが、まぁ正当化し切れてないですよ。

我々はその悪事を犯しているという認識をせめて感謝に変えながら生きていかなければならないと思うんです。

動物好きの私としてはやはりショッキングですよ。

普段、かわいいなーって思って見ている鳥や豚を殺して皮をはいで…。それをサイコパスだと思えてしまうのは、その真実を実際に見ずにさほど気にも留めずに過ごして来た証拠なんでしょう。

他人が殺して「食材」にしてくれてスーパーに並べられた命を、最初から「食材」として認識し、ダメになったら平気で破棄する。一般家庭で行われているそれこそが悪かも知れません。

「殺したのは私じゃないし」と言える一番卑怯な立場にいるという認識は忘れちゃいけない。我々の需要があるから、食うくせに殺して捌く覚悟がないから、代わりにやってくれてる人達がいる。そこにも感謝しなくちゃいけない。

我々は何かしら他の命を戴かずして生きてはいけません。

それを「悪」としなくても、少なくとも感謝しなくてはいけないし、そうまでして我々は生かさせてもらっているという実感をたまにでもいいから持つべきじゃないかと思うんです。

そして、それを子供達に教えていくべきなのです。

そんな考えをもつ私ですが、ではこのショッキングな事実を我が子に対してどれくらいの時期にどれくらい鮮明な表現で伝えるべきかを模索しています。

どこかの農大かなんかで、自分が育てた鶏を殺して食べるみたいな教育してるとこあるじゃないですか?

あれは本当、その世界の核心をついた教育だと思います。

害のある敵を殺して、食べる。これだったら正義として成り立ちます。だからそこまで心は痛まないでしょう。

可愛がって育てたその命を、私が生きるためにいただきます、ごめんなさい、ありがとう。

そこで「我々の仕事はこういうことなんだぞ!」てゆう真の意味が心から分かるんでしょう。

いや、なんか泣けてきますよね。

殺される側は相手がどんな感謝しても

「いやいやいや、嫌だよ!殺されたくねぇよ」

って思うでしょう。

でも殺すのです。他ならぬエゴです。

命の価値、平等性が分からなくなる。

でもそんな中でしか生きていけないんです。

考えすぎてしまう人は、そこまで罪の意識を常に持って生きていく必要はないと思います。「自然の摂理」。それ以上深掘りしない。

でも完全に目を背けてはいけません。

我々は他の命を戴いて

『生かせてもらっている』

ということを。

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